ニューロン活け造り

おすすめはわさび醤油

『La Création』- フリーナ誕生日短歌について

フリーナ様お誕生日おめでとうございます!した!

2024年に公開した短歌連作『La Création』の自解を書いていきたいと思います。

 

すがたなきものにすがたを信仰はこの身を彫(きざ)む幾万の鑿

「つくること」というコンセプトで連作を作ろうと決めたきっかけの歌です。

フリーナが演じる水神は非の打ち所がなく、彼女が歯を食いしばって切望の末に得た結果であった。(フリーナキャラクターストーリー4より)

フリーナは民への共感、想像、狂気、執念によって、まったくの無から『水神』をつくりあげました。人々の心の中にかたちなく存在する、人々が求める神を。
原神の作中世界は魔神と呼ばれる存在が闊歩する世界ですが、人の心の中にある「神」は無形のものです。だから人は神に祈り、期待し、無私の愛と献身を捧げ、そして裏切られたと失望する。フリーナの受け止めてきたものとはそういうものでしょう。

僕は神フォカロルスだぞ。フォンテーヌの無数の目が、僕を見つめているじゃないか。僕はいつだって、最も優雅で高貴な振る舞いを披露しなければいけないんだ。(魔神任務第四章第五幕「罪人の円舞曲」より)

フリーナが大衆のまなざしに自らを晒し続けた日々は、さながら見えない鑿を突き立てられるかのような痛苦を伴うものであったのではないかなと想像します。そして、しかしそれでも、彼女が「神」を全うしフォンテーヌの救済を成し遂げてみせたことのはてしなさを思います。
「すがたなきものにすがたを」は、人々を守りたいと一心に願い続けた、神の庇護を彼らに信じさせてあげたかったフリーナ自身の叫びとしてよみこんだフレーズでした。

 

額越しに見れば嵐も大波も怖くないよ怖くないほら信じて

フリーナが水神を務めていたフォンテーヌの五百年は、それ自体が歌劇や、絵画や寓話、あるいは夢の中の出来事のように、ある種の幻想に包まれていたものであるような印象を受けます。
フォンテーヌの民が一度でも神としてのフリーナに疑心や不信を抱くことがあれば、おそらく予言を覆すことはかなわなかったように、フリーナ自身もまたフォカロルスの計画に疑心や不信を抱いていたとしたら使命を果たすことは難しかったはずです。

キミはただ、僕という神を信じればいい。心の奥底で納得できるかどうかは別として、ただひたすら従えばいいのさ!いずれにせよ…きっとうまくいくのだから。(魔神任務第四章第五幕「罪人の円舞曲」より)

フリーナがこの五百年できっと幾度となく発してきた「僕という神を信じろ」という言葉に宿っていたであろう、ため息のようにささやかで痛切な祈りについて考えます。彼女もまた、自身という「神」が向かう先にあるものを、無力な人のように頭を垂れて信じるほかなかったのですから。

 

晶螺マドレーヌあげる 骨身も残らないその手で人は永遠をなす

フリーナと彼女を見上げるフォンテーヌの人々の姿を借りて、あらゆる芸術、創作、文化、人間の精神的営為を高らかに頌えるような作品を作れたらいいなと思いながら作った歌でした。
フォンテーヌの民がフリーナに向ける信仰と敬愛を象徴するアイテムとして、フォカロルスのためにという菓子が作品世界に存在していることが好きです。

長方形の小さなケーキ。遥か昔、あるパティシエが、フォンテーヌの人々が水神を深く敬愛していたことからインスピレーションを受け、このデザートを作ったという。技術力を要する手順や、いくつも重なった層は、水神の影響力を如実に示している。(「フォカロルスのために」テキストより)

他にも俗世の七執政の名を冠する料理としてモンドの風神ヒュッツポットがありますが、あちらは「どこにでもあるような材料」で作れる「簡単な料理」らしいので、その違いも面白く感じます。
フォンテーヌ人にとっての水神フリーナは、永遠に色褪せることのない青春のような存在として語られます。ケーキだけでなく、「ベネボレンス・オブ・フリーナ」なる名前の賛美歌や、千霊映影祭にて授与される賞の名前が「フリーナ賞」に決まったことからも、人々がフリーナを仰ぎ見るまなざしに込められたきらきらしたものが、それをさまざまな形で表現しようという熱意が見てとれるように思います。そうやって人々が「つくること」に託した心もまた、永遠に受け継がれ謳われるものであればいいなと願っています。

晶螺マドレーヌを選んだ理由ですが、由来のふわふわな感じが個人的にお気に入りだったからです。

可愛い形をしたデザート。噂によれば、フォンテーヌの裕福な家の料理人が、坊ちゃんをあやすために蒼晶螺の形を真似て作ったケーキだとか。話の真偽は証明しようもないが、その美味しさは紛れもない真実である。 (「晶螺マドレーヌ」テキストより)

モチーフとなっている蒼晶螺も図鑑での言及が終始「~のようだ」「~とされていた」「~と考えられている」というような感じで、ふわふわさ加減に磨きがかかってるのもいい。なんであれ、その甘さに託される思いは真実なのだろうから。

 

万雷の拍手は花野の風に似てそのひとひらに恋をしている

舞台に立つフリーナの歌です。
フォンテーヌの歴史の中で、フリーナに捧げられた拍手の数というのは、文字通り数え切れないほどのものでしょう。公演が始まって終わるまでの間のひとときだけの出会い、その全て、ひとつ残らずにフリーナが愛し、慈しみ、守りたいと願った人生がある。彼らが目を見張り、涙し、声を上げて笑い、感嘆の息を漏らす、ありとあらゆる感情の背後には彼らの生きてきた時間がある。そういうものをフリーナが受け止め続けてきたということ。その途方もなさに思いを馳せます。

うまく言えないけど、物語や創作物にふれて感動するのって、実はすごいことが起きてるよなあ…とふと考えることがあります。私の人生と私ではない誰か(それはキャラクターでもあるし、作り手・表現者でもあるし、それらを取り巻いている形のないすべてでもある)の人生が交差するということ。その誰かの言葉が、弦をつま弾くように私の内側を撫でていき、音を鳴らすということ。
というのを最近自分はフリンズのシグルドに向けられた「しかし…憎しみと責任だけのために戦うなんて、寂しすぎます…それに、残酷すぎます。」という言葉に衝撃を受けすぎてしみじみと感じ入ることになっているのですが…(自分の心からは現われ得なかった感情に心を動かされて、他人の持ち物である言葉が自分の中に沁み込んでくるということ…)

一首目とこの四首目は、表現したいものが表現したいものだったため(フリーナをフリーナたらしめてきたもの)ばちっと定型で決めたい!という気持ちがあったのですが、難しかったです…措辞の力に頼ることでなんとか形にできたという感触が強い歌です。

 

本になるなら棚の一番下で泣きたい夜にふと目が合いたい

フリーナと彼女がかつて読んだ少女クラバレッタの物語のことを考えながら作りました。
フリーナの五百年の一幕に、物語に孤独を癒される時間が存在したことを、いいなあと思っています。それは物語の持つ偉大な力の表れであり、フリーナが苦痛と孤独の中にあっても失うことのなかった豊かな感受性を描いているものだとも感じます。

僕はルエトワールが大好きなんだ。この生物は誰も見ていない場所でも光を放ってる。僕に言わせれば、ルエトワールこそ一番の「スター」さ。はぁ、ルエトワールが主役の劇があったらいいのになぁ。そしたら僕も、群れから離れたかわいいヒトデを心から演じられるのに。(フリーナ「興味のあること・ルエトワール」ボイスより)

フリーナは誰にも顧みられずとも光を放つものに美学を持っている人です。そんなフリーナの物語が、かつての彼女にとってのクラバレッタのように、誰かの孤独にそっと寄り添いなぐさめになるようなことがあるのなら、それ以上に素敵なことはないと思います。

 

 

読んでいただきありがとうございました!

フリーナの人生が、彼女の信じ抜いた世界の美しさによって彩られんことを。