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祈りに充ち満ちたこの星に僕は立つ/『ウルトラマンジード』第17話にみる現実としてのヒーロー

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ウルトラマンジード』公式サイト(https://m-78.jp/geed/)より

自分は今『ウルトラマンジード』(以下『ジード』)という特撮番組を見ています。すごく面白くて、ここ数日夢中になっている。運命への挑戦・祈り・造られたヒーロー・父子の対決・名付けによる存在の再定義あたりのキーワードにピンとくる人にはすごくすごく見てほしい。私にとっての『ジード』に心を掴まれるきっかけ、フックっていうのは「幼い頃から特撮ヒーローに憧れていた主人公がある日力を手に入れてヒーローになることを選ぶ」というところだったんだけど、この設定をパーフェクトに昇華したエピソードが『ジード』には存在します。それが第17話「キングの奇跡!変えるぜ!運命!!」です。


父子の抱擁、あるいはあら野の誘惑

ジード』の主人公である朝倉リク/ウルトラマンジードは、悪のウルトラマン・ベリアルの遺伝子から生み出された人工生命体です。ベリアルの狂信者であり、ベリアル復活のために彼を造り出した伏井出ケイには蔑みを込めて「模造品」などと呼ばれていますが、ベリアル自身は一貫してリクのことを「息子」と呼び、その言動にはリクへの愛情のようなものさえ感じ取れました。しかしそれは自らの遺伝子を継いだリクの肉体を取り込み自分の力とするための罠だったことが17話で判明します。ベリアルはリクに慈しむような優しい声で囁きかけます。

「孤独だっただろう。戻ってこい……父の元に。俺はお前を独りにしない」

「俺たちは家族じゃないか。地球人はお前を完全には受け入れていない。臆病な奴らだ」

「心の奥底では求めていたはずだ。本当の家族を……」

家族を知らず育った孤独。街を破壊する怪獣や宇宙人。突如現れたジードに怯える市民。ジードへの不信感を煽り立てるマスメディア。明かされた出生の秘密。生まれてから今までずっとそういったものと戦い続けることを余儀なくされてきたリクくんの心は、ベリアルの甘言に絡め取られ徐々に蝕まれていきます。ここで緊張の糸がふつと切れたように倒れ込むリクくんを愛おしそうに抱きしめるベリアルが本当におぞましい。邪悪な本性を一切隠すことなく、それでいて慈愛に満ちた優しい父を完璧に演じている。キメラべロスの中で少しずつ失われていくジードの生体反応といい、一連のシーンには本当にぞくぞくさせられました。ウルトラマンベリアル、最高の悪の権化。なんで生首剣なんかになっちゃったんですか?(素朴な疑問)


目を開けて見る夢

父を受け入れつつあるリクの精神世界に駆けつけたのは、彼の戦友でありかけがえのない仲間であるライハでした。彼女はこう叫びます。

「リク駄目!ベリアルに惑わされないで。あなたはリク、朝倉リク……思い出して!!」

「忘れないで。仲間のことを、地球のことを、あなたの夢を!あなたは、みんなのヒーローなんだから!!」

このセリフは以前ゼロがリクに語った「道に迷ったら仲間のことを思い出せ。過ごした時間を、夢を。自分がなぜ、ここにいるのかを」という言葉を彷彿とさせるものです。そしてライハの叫びを耳にしたリクの脳裏に、ある記憶が蘇ります。

それはある日どこかで行われた、とあるヒーローのイベント。リクが愛してやまない特撮番組「爆裂戦記ドンシャイン」の握手会での出来事でした。他の子供のように親に連れられて来た様子でもなく、会場の隅っこの離れた場所で一人泣いているリクを見つけるやいなや、ドンシャインは人波をかき分けてリクの前に駆けつけ「キミの笑顔を取り戻す。ヒアウィーゴー!」そう言って、リクの前に拳を突き出しました。

これが、リクにとっての「忘れられない夢」です。悲しい時も寂しい時も、いつだってドンシャインはリクに寄り添い心の支えとなってくれました。彼にとってのドンシャインとは、ヒーローとはそういうものなのです。一人で泣いている時に真っ先に駆けつけてくれる存在。どんなピンチに陥っても自分を呼ぶ声がある限り何度だって立ち上がれる存在。そんなドンシャインに憧れたからこそ、彼は自分に待ち受ける過酷な運命に『ヒーロー』として戦う決意をしたのです。

そして彼は目覚めます。朝倉リクを、ウルトラマンジードを、そういう名をした『ヒーロー』を待っている人たちがいる現実へと。

 

ボーダーレスな空間としてのヒーローショー

私はヒーローショーというものが好きです。ヒーローとして舞台に立つアクター、場をセッティングするスタッフ、そしてヒーローの登場を心待ちにする観客。その場に集った全員の「ヒーローとはかくあるものだ」というイメージが一致しなければ成り立たないものだからです。そういう意味で、ヒーローショーのヒーローとはひとときの共同幻想であると言えるでしょう。

ヒーローの条件とは何でしょうか。カッコいいこと?悪い奴に負けないこと?優しいこと?諦めないこと?子供たちが思い描くそんなヒーロー像を壊さないよう、作り手はあれこれ工夫を凝らしてショーを作り上げます。そうして目の前にあらわれたヒーローを子供たちは受け入れ、声の限り応援しようとします。ここにあるのは、作り手と観客双方の「かくあるべし」という祈りの交歓です。

祈り。これは『ジード』の物語の根幹をなすテーマのひとつでもあります。
前作『ウルトラマンオーブ』には「この宇宙を回すもの、それは『愛』なんだ」というセリフがありましたが、ジードにおいて宇宙を回しているのは『祈り』なのでしょう。現にクライシス・インパクト後の『ジード』世界は幼年期放射=ウルトラマンキングの「この宇宙を生かしたい、己の命にかえても」という祈りのエネルギーが絶えず循環することで存続しているのですが、この地球を回しているのはキングという強大な力を持った大いなる存在の祈りだけではありません。その証拠となるのが先ほどのリクの回想なのだと、そう私は受け取りました。

リクくんの街にやってきたドンシャインは、当然ですがテレビの中のドンシャイン本人ではありません。きっとスーツアクターさんだって番組に出演している人とは別人なのでしょう。それでも彼はリクのもとへ真っ先に駆け寄り、手を伸ばしました。そのアクターさんにとってのドンシャインとは、ヒーローとは、そういうことを自然と行える存在なのです。そして声をかけられたリク自身も会場に集まった他の人々も、彼の行動をドンシャインの行動として当たり前に受け入れている。ここには、まぎれもない現実としての『ヒーロー』があります。たくさんの人の願いが、憧れが、祈りが積み重なってできているのがドンシャインというヒーローであり、番組がフィクションだろうがアクターが別人だろうがその行動が台本にないものであろうがその現実は揺るがないのです。

ヒーローショーとはきわめてボーダーレスな空間であると言えるでしょう。フィクションとノンフィクション、ホンモノとニセモノ、シナリオとアドリブ、そして作り手と観客。そういったものの境界は、たくさんの人に思い描かれ祈りを向けられることで作り上げられたヒーローの前では限りなく薄くなります。私が何より美しいと感じたのは、この人間の祈りの結晶である『ヒーロー』がリクの孤独を癒し、涙を拭い、人々の輪に手招いて彼を地球に繋ぎ止めたという構図です。ヒーローの前では、地球人と異星人の境界すらも無意味なものとなるのです。 


今のリクくんは一人ぼっちなんかではありません。モアさんとドンシャインを見る時間は彼にとっては孤独を忘れることができるかけがえのない時間だったでしょうし、ペガくんという一緒にテレビの前に座ってくれる友達もできました。ライハさんはぶっきらぼうだけど彼のヒーローへの想いをまっすぐに信じてくれています。心優しいレイトさんはリクくんの行く先を案じ祝福してくれましたし、戦友であり先輩ウルトラマンであり兄貴分のような存在であるゼロはかつてのドンシャインのように彼に拳を差し出してくれました。

そして。今の彼を『ヒーロー』たらしめているのは、顔も知らない数えきれないほどの人々の祈りです。この宇宙を巡り地球を回している、そしてあの日リクを救ってくれたドンシャインにも宿っていた祈りのエネルギーです。

願わくば、私の画面越しの祈りも彼の糧となってくれますよう。

がんばれ、リクくん。がんばれ、ウルトラマンジード!!